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「老人ホームひまわり園」その5

 南関東大会の講評で、その審査員がおっしゃったことを、私なりに要約します。「老人ホームひまわり園」そのものを大枠では高く評価して、あえて付言するなら、といった感じで。

 審査員曰く 「ダンスのシーンが、単に高校生が踊っているようにしか見えなかった。それが残念だ。お年寄りのリアルな演技を期待したい」。

 ちょっと待った。審査員に「異議あり!」です。私の意見は正反対だ。正直、講評を聴いていて、この発言には唖然としたことを覚えています。それって想像力が乏しすぎやしないか。

 老人ホームの女性たちが あたかも女子高生のように 踊るからステキなのだ。

 「シカゴ」のシーンでは、身体を動かしたり、声を出したり、共通の振り付けで一体感を感じたり、つまりは踊ることの喜びが、彼女たちからあふれています。顔からも、身体からも、喜びが伝わる。それは隠しようもなく、高校生の顔や身体なのであって、彼女たちは踊りながら、あるいはすでに歌のシーンから、その身体に徐々に若さを回復していったかのようです。

 もちろんそれは芝居のウソです。

 腰が曲がって杖なしでは歩けなかったり、車椅子が必要だったり、痴呆がすすんで表情をなくしてしまったり。あるいは元気でも、「アタシら、つぎに家に帰るときはお骨だからね」だなんて会話をしていたりする。

 彼女たちお年寄りは、そんな重い現実を抱えています。身体的にも、あるいは精神的にも、彼女たちの抱えているものは重い。あんな軽やかに笑顔で踊ってみせるには、彼女たちの身体や精神は「重すぎる」でしょう。踊れっこない。とは思う。けれども。

 入居者の女性たちは、それぞれに自分の数十年以上もの人生を経て、いまの彼女たちがある。けれども。彼女たちの全員がひとしく、16歳17歳18歳の「溌剌とした身体」をかつてはもっていて、その年齢に相応の喜びをその身体に横溢させていたはずです。

 そうなんですよ。老人ホームの女性たちだって、かつては女子高生で、こんな顔と身体をして、踊っていたにちがいないのだ。もう失われてしまったものを、「シカゴ」のシーンの間だけ、彼女たちは身体の内奥からよみがえらせます。

 わずかに一曲。ダンスを踊っている間だけです。

 魔法のような、これはつかのまの夢です。こんなにステキな時間があるでしょうか。そしてこれは芝居のウソで、現実にはこんなステキな時間などありえないことを私はどこかで了解していて、それを哀しくも思っている。これほどステキなシーンがほかにあるでしょうか。

 さらに。彼女たちと同じことが、観客の私にも言えると思うのです。

 私もすでに高校生のころの顔や身体を失っている。私もどこか重たくなってしまっている。私もたぶん自分に対してなにかを諦めてしまっている。そんな自分に気づき、彼女たちを見て、自分の内奥にまだ潜んでいるのかもしれないもののステキさと哀しさを思う。そういうのって、単なる「共感」とはちがいます。答えではなく問いかけを提示して、見る者の想像力に働きかけているからです。

 私のような、すでに高校生ではない者が見れば、いっそう多くのことを感じるのだろう。たぶんそうでしょう。その点でも、これは「高校生離れ」した作品だと言っていいと思います。

 これをね。「お年寄りのリアルな演技」でやってしまっては、台無しだと思うのですよ。

 審査員のアドバイスを真に受けて、このシーンの演出ががらっと変わってしまっていたらどうしよう・・・。そんな心配もありましたが、まったくの杞憂でした! ぜひそのままそのまま。全国大会でも思う存分、踊ってくださいね。あなたたちはステキです。

 ああ、青森まで見に行きたい! たぶん見に行けない自分が重い・・・。(はやし)
by futohen | 2005-07-19 00:39 | 演劇一般